ちょっと休憩~「的を得る」論争

私もよく講座で言ってきたことなのですが、

「的を得る」は慣例的に使われている表現で正しくない。「当を得る」とする
か「的を射る」にしなくてはならない

ということは、モノカキの間では常識的にとらえられてきました。
ところが、昨年とある予備校の講師の方が「的を得る、といういい方も歴史的
に正しい」という話を公表され、これが一部で大論争になりました。

大雑把に書くと、「得る」そのものが昔から的に当てるというような意味を表
していたから、意味合いとしておかしくない。また「的を射る」では、「的を
得る」と言う言葉とは意味が異なってしまう…というようなもの。

果たして正解は?ということで論争になったようなのですが、実のところ、ラ
イターとして執筆する上ではあまり変化はありません。ライターのバイブル
「記者ハンドブック」や校正マニュアル等でも、現在のところ「的を得る」は
×になっていて、実際現場レベルでは「的を得る」とは書きません。
辞書などではすでに「的を得る」も正しいという表記に変わっていますが、こ
うした部分ではマスコミ・出版業界は保守的です。50、60代のベテラン校正さ
んにタテついてまで、また読者からのクレーム覚悟で「的を得る」と書く度胸
は私にはありません。

ただ、言葉というのは常に移り変わるもの。私の嫌いな「ら抜き言葉」も浸透
しつつある昨今、いずれ「的を得る」も正しい表現として普通に使われるよう
になることでしょうね。しかし「正しいからいいんです!」と押し通すことが
いいことかというと…それもどうかと思います。「的を射る」が使いたくなけ
れば、素直に他の言い方に変えればいいわけですからね。

さて、皆さんはどう思いますか?

☆長らく放置しておりましたが、本サイトは、上記内容についての真偽を議論していただく場ではございませんので、これ以上のコメント投稿は停止させていただきます。あしからずご了承ください(2015.5.9)

関連する投稿

これまでのコメント

  1. チノ :

    近年にあった、正しい日本語ブームで、言葉の誤用について調べているうちに
    ”的を得る”について、”正鵠を得る”から来ていると知りました。

    個人的には”的を得る”の方が、意味合いとしてしっくり来たので
    それからは的を得るを使うようになり、自分と同じように
    周りにも”的を得る”が正しいとする方も増えているようにも個人的には感じているのですが
    ”的を射る”、”的を得る”どちらを使っても、突っ込みを受ける確率が高いので悩ましい所です。

    最近では、定着するかしないか二分してしまった言葉を扱うのに躊躇うようになってしまいました。
    相手によって使い分けることも現実的には難しいですし。

  2. admin :

    ちなみに「正鵠を得る」にも「得る」「射る」の論争があります。
    本記事でも書いていますが、私は使いませんね。
    おっしゃるとおり、どちらにしてもツッコミがあり得ますから。

  3. BIFF :

    用例の数からも、登場時期からも「正鵠を得る」と「正鵠を射る」には論争の余地はありません。元は「正鵠を得る」です。(http://biff1902.way-nifty.com/biff/2010/05/post-fc48.html)

    「的を得る」が誤用とする説には、以前から「正鵠を得る」が元ではないかという指摘がされていますが、決着がつかぬまま10年ほど前の日本語ブームで「誤用説」が流行し現在は定説のようになってしまっています。ただ私が調べた限り、ほぼ間違いなく「正鵠を得る」が元だと思います。(http://biff1902.way-nifty.com/biff/2011/12/—-1fc9.html)

    因みに「正鵠を得る」「的を得る」「正鵠を射る」「的を射る」は、慣用表現としてはすべて同じ意味なので、この点、予備校講師の方の説は誤りがあると思います。

  4. admin :

    BIFFさん、ありがとうございます。参考になりました。
    いずれにせよ、君子危うきに近寄らず、が売文家としての結論です。

  5. 得る嫌い :

    的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ。コピペ拡散希望

    正鵠を得るが礼記にある→ない。礼記の不失正鵠(正鵠を失せず)を失わずと間違え、そこからの推測で正鵠を得るができただけ。漢語に得正鵠は存在しない。失正鵠(正鵠をそれる)の対義語は中正鵠(正鵠にあたる)。用例もある
    正鵠は的の中心の黒星のこと→それは礼記からずーっと時が経ってからできた意味。正鵠の本来の意味は的の中心の黒星ではなく、単純に的のこと。正も鵠も的の大きさで言い分けるだけ
    得には当たる意味がある→ない。得より取のほうがよっぽどマシかもね
    射るだと当たったかは不明。射抜くにしなければならない→違う。射るには当たる意味がある。これは日本古来の意味。用例もある
    昔は漢籍に精通した人が多く、年長者ほど正鵠を得ると的を得るを使用する→正確に伝来できずに意味を間違えた漢語は沢山ある。正鵠を得るは日本最初の要点を上手く捉える意味の語句だから認めざるを得ないだけ
    中国語で得正鵠がある→それは日本から中国に伝わったもの。正鵠を得るは諸悪の根源である
    正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順に作られた。正鵠を射ると的を射るこそが誤用→正鵠を射る(正鵠=的。射る=中)は正鵠を得るの訂正。的を射る=正鵠を射る=中正鵠≠正鵠を得る=得正鵠=的を得る
    的を得るは誤用じゃない→誤用は言葉の意味を誤って使うことで、言葉そのものを誤ったときには使用できない。的を得るは誤用ですらない
    的を得るは正しいんだ→的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではない。慣用句は特定の単語の組み合わせでなければならず、同じ意味の単語ではダメ。100階から目薬、写輪眼が無い、馬の耳に聖歌、ハローキティに小判が正しいとでも言うのか
    根拠を出せ→民明書房にも劣る得る正当説を信じる君が大好きなネット検索で調べてみよう。それでも納得できなければ、辞書や古典とかいろいろ読んでみよう。もちろん角川や三省堂以外もね
    無根拠で得るを否定する無責任なヤツは得る正当論に反論できなかった。論破したから正論だ→なにが正論かは時と場合によって変わるし、論破されなければ正論というわけでもない。文化庁などの総意を無視して詭弁をふりかざす無責任なことは止めてください

    言語力をなくした悲しい正鵠を得る・得正鵠・的を得る信者さん。このキュアハートが、あなたの正しい言葉の観念、取り戻してみせる!

  6. BIFF :

    ご無沙汰しております。

    「的を得る」の件、昨年12月に誤用説の総本山『三省堂国語辞典』が誤用説を撤回したことで、「誤用説は俗説」という形でほぼ決着がつきました。これだけ「的を得るは誤用」というのが常識のように広まってしまった以上、世間の認識が変わるのは相当先のことになるとは思いますが。取り合えす、ご報告まで。

    http://biff1902.way-nifty.com/biff/2014/05/post-8ee7.html

  7. 失わず(笑) :

    みなさん「BIFFの亜空間要塞」のトンデモ理論にだまされないでください。
    BIFFさんのブログにカキコしても削除されてしまったので、ここでBIFFさんへの反論をします。

    漢語で「失」は「それる」意味があり、礼記の不失正鵠は「正鵠をそれず」という意味で「失わず」だと意味不明になります。
    「失」の対義語はあたるの「中」で、失正鵠の対義語は中正鵠です。そして得正鵠は存在しません。
    虞集『尚志斎説』などで用例もあります。下記のサイトで「中正鵠」で検索してください。
    http://zh.wikisource.org/wiki/Wikisource
    BIFFさんの「礼記の『正鵠を失わず』を…」という論はこの時点で破綻しています。

    日本語の「正鵠」は西周が『五国対照兵語字書』で仏語の’ blanc de cible’ という射撃の標的の中心の白円を黒星ではないにも関わらず強引に「正鵠」と訳し、大槻文彦が『言海』で的の黒星と自分勝手に創作し、服部宇之吉の「鵠」に的の黒星の意味があるという誤解し、それが日本と中国に拡散しただけです。
    つまり日本語の正鵠は中国語の正鵠と別物どころか仏語としても間違っています。
    BIFFさんの「中国の正鵠は日本に来て『的の中心の黒星』になった」という論ははじめから間違っています。

    「得」には「あたる」意味は存在しません。これは日本・中国共通です。
    BIFFさんは「『得』には色々なニュアンスがあります」と主張していますが、「得にあたる意味がある」とするには力不足としか言えません。

    「射る」には「あたる」意味があります。『平家物語』の「扇の的」で『うつ』を「放つ」、『射抜く』を「射切る」、『あてる』を「射る」と言い分けているのは明白です。
    BIFFさんの「『的を射る』は文字通り矢を撃つだけ」とする発言は古典を愚弄しているとしか思えません。

    「鮪」「鮭」など、日本は独り善がりな推測で漢語の意味をこうであると決めつけ、漢語を正確に伝来せず、それらを「間違いだが正しい」と認めざるを得なくなりました。
    「正鵠を得る」もその一つです。そして正鵠を得るは「得正鵠」という意味不明な語句を中国に伝えてしまいました。
    カタカナやひらがなや日本オリジナル漢字は正真正銘「日本の文化」ですが、勘違いしただけの言葉を「日本の正しい文化」とするのは単なる開き直りです。
    「挨拶の魔法。挨拶するたび友達増えるね」とか恐すぎる。

    正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順にこれらの言葉が誕生しました。どれも戦前から用例があります。
    BIFFさんの「的を得ると的を射るの戦前の用例が見つからない」というのはダメダメです。

    誤用は「『使い方を』間違える」意味であり、「間違える」意味ではありません。
    BIFFさんの「的を得る誤用説は…」という発言は誤用を誤用しています。

    的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではないです。慣用句は特定の単語の組み合わせでなければならず、同じ意味の単語では認められません。
    BIFFさんは「100階から目薬。写輪眼が無い。馬の耳に聖歌。ハローキティに小判」は正しいと主張するべきです。

    BIFFさんは「正鵠を得るがなければ的を射るは生まれなかった」と反論しています。
    しかし、「的外れ」は18世紀、「当たらずといえども遠からず」は1810年頃から用例があります。
    つまり的を射るは正鵠を得るが存在しなくとも慣用句化したと言っても正鵠をそれてはいません。

    このままではBIFFさんたちのせいで日本語・中国語、そして仏語が破滅してしまいます。
    お願いです!みんなの力を合わせて、「的を得る・得正鵠・正鵠を得る」という邪悪な言葉を滅ぼしましょう!

  8. 失わず(笑) :

    おぉっと、日本の正鵠は合類大節用集のマトノメアテでした( ^ω^;)
    しかしこれでは「正鵠と的は別物」となるので、正鵠を得る→的を得るはなんだかおかしいですね
    BIFFさんの図解ではさり気なく「正鵠=的。的を射る=的に向かって矢を放つ」となっていますね…!?
    これはBIFFさんにとっては変化となるのでしょうね…

    三省堂より前から「的を得るは誤り」という説が存在します
    BIFFさんは「当を得るとの混同だと言っているだけ。根拠がない。話題にならない。よって三省堂が誤用の総本山」と言っています
    BIFFさんは「間違いの原因は不明だが、的を得るは間違いだという認識はされている」という可能性を排除しています
    また三省堂より前に文化庁が「的を得るは間違い」と言っています。「日本の意見」より「三省堂の意見」。それがBIFFさんです
    しかも三省堂が誤りを撤回した理由は「正鵠を得るだから的を得る」という得る派の普通の意見ではなく「うまく捉える意味だから」という理由です

    BIFFさんは「日本だから『不失正鵠』は『正鵠を失わず』と日本式で読んでいい」と言っていますが、その国の意味、その時の文化で読まなければ意味不明な文章になるのに、なぜ他国の書物を自国の文化で読まないのでしょう?
    「糞うぜぇマジshine」と書いてあって、それを外国人が「shineは日本で死ねだけど、読んでいる私は日本人じゃないから輝きと読む」
    古典に「ことわる」と書いていたら、現代の人が「昔はことわるは判断するという意味だが、今の文化では拒否することだから、これは拒否する意味でいい」
    中国の本で「手紙でお尻を拭く」と書いていたら、日本の人が「中国ではトイレットペーパーだけど、ここは日本だから日本の手紙の意味で読む」
    日本の本で「切手が趣味」と書いていると、中国人が「日本の切手と別物だが、中国の意味でリストカットが趣味と読んで問題なし」
    という理論が正しいとでも言うのでしょうか?
    異文化だからこそ、自分の国や時代の文化を棄て、相手の国や時代の文化で受け止める
    そうであるからこそ我々は過去の書物を読むことができ、お互いの文化を尊重しあえるのではないでしょうか…?
    「不失正鵠」を「正鵠を失わず」とするのは誤訳以外のなんでもありません
    「正鵠を得る」は「勘違いから生まれた」「ギャグ」というだけ
    正鵠を得るは日本で正しいから的を得るは正しいという論は、「ホワイトシャツはワイシャツで正しいんだ!ブルーのワイシャツは正しいんだ!」と言っているのと同レベルです
    最初から正しい言葉とゴリ押しで正しくなった言葉は全然違います

  9. それず :

    的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ。コピペ拡散希望

    正鵠を得るが礼記にある→ない。礼記の不失正鵠(正鵠を失せず)を失わずと間違え、そこからの推測で正鵠を得るができただけ。漢語に得正鵠は存在しない。失は失うではなくそれる・すべ・はずれる意。対義語はあたるの中。失正鵠(正鵠をそれる)の対義語は中正鵠(正鵠にあたる)
    虞集『尚志斎説』などで用例もある。下記のサイトで「中正鵠」で検索してみよう
    http://zh.wikisource.org/wiki/Wikisource
    正鵠は的の中心の黒星のこと→漢籍では的自体を指す。日本での意味は槇島昭武の個人言語から広まった可能性あり。西周がそれを参考にしたのか、仏語の’ blanc de cible’を正鵠と訳し、弓道の正鵠ができた
    結局西周が正鵠と訳した対象は、銃に関わるもので弓とは無関係。日本の弓術は矢が的のどこに当たったかで評価は変わらない。得点的は西洋からきた
    中国の正鵠≠日本の正鵠≠仏語の正鵠≠弓道の正鵠。「正鵠を得る=的の中心を射抜く→要点をつかむ」という解釈は近代的・西洋的である
    得には当たる意味がある→ない。中国でも日本でも得に当たる意味などない。
    射るだと当たったかは不明。射抜くにしなければならない→射るには当たる意味がある。『平家物語』の「扇の的」で「うつ→放つ」「射抜く→射切る」「あてる→射る」と言い分けている
    失の対義語は得である→得⇔損。失敗⇔成功。失望⇔希望。得手⇔苦手。過失⇔故意。失業⇔就業。失火⇔放火。失効⇔発効。見失う⇔見付ける。面目を失う⇔面目を施す。礼を失する⇔礼を尽くす。あれれ?
    昔は漢籍に精通した人が多く、年長者ほど正鵠を得ると的を得るを使用する→正確に伝来できずに意味を間違えた漢語は沢山ある。それらは誤りだが正しいとせざるを得なくなった。正鵠を得るは日本初の要点を上手く捉える意味の語句だから誤りだが正しいと認めざるを得ないだけ
    中国語で得正鵠がある→それは日本から中国に伝わったもの。
    正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順に作られた。正鵠を射ると的を射るこそが誤用→正鵠を射る(正鵠=的。射る=中)は正鵠を得るの訂正。的を射る=正鵠を射る=正鵠に中つ=中正鵠=正鵠をそれず=不失正鵠≠正鵠を失わず=正鵠を得る=得正鵠=的を得る
    的を得るは誤用じゃない→誤用の意味は「言葉の意味を誤って使う。言葉自体を誤ることではない」。的を得るは誤用ですらない
    的を得るは正しいんだ→的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではない。慣用句は特定の単語の組み合わせを用い、同じ意味の単語ではダメ。100階から目薬、写輪眼が無い、馬の耳に聖歌、ハローキティに小判が正しいとでも言うのか
    正鵠を得るがなければ正鵠を射るも的を射るも作られなかった→「的外れ」は18世紀から、「当たらずといえども遠からず」は1810年頃から用例がある。的を射るが慣用句化した可能性は十分ある
    三省堂が誤用撤回したから正しい→規範主義でもない記述主義の三国の「誤用。正用」を参照するの?
    的を得る誤り説の初出は三国じゃない。三国の前のものには論拠が無い?話題にならなかったから大したことない?論拠を間違えただけで、的を得る自体が誤りという認識があり、的を得るが誤りという論に違和感がなかったかもしれない
    それを言うなら、的を得る派が正鵠を得るの基となった正鵠を失わずが正しいとする論拠を一切提示していない
    ちなみに文化庁に「三省堂が的を得るは誤りではないと言ったから、的を得るは正しいのか」という問い合わせの返答は以下の通り
    『三省堂国語辞典 第7版』の新しい記述に関しては承知しておりますが,他の辞書が同様の見解を示しているわけではありません。
    例えば,同じ三省堂であっても,『現代新国語辞典 第4版』や『大辞林 第3版』などでは『三省堂国語辞典 第7版』と同じ見解ではないようです。
    三省堂だけでなく,各社の今後の動向を注視していこうと考えております。
    BIFFの亜空間要塞は正しい→的を得るを勝手に慣用句にする。的を得る未掲載の辞書を得るを容認しているように話す。日本の正鵠の初出を勘違いした相手を調査不足だと人身攻撃も厭わない。無知と卑下しながらインテリナルシシズム全開
    余談だけど心理学では「難しい言葉を使いたがる人ほど心が狭い」とされている

  10. それず :

    日本と中国は異文化。正鵠を得るは中正鵠でなくて不失正鵠を「正鵠を失わず」と日本読みし、そこから生まれた日本の慣用句。中国にない表現でも誤りではない。日本独自の文化。そもそも異文化を間違いなく解釈することなんて無理。変化は必然。失わずは決して間違いではない
    →金玉均はきんたまきん?開眼をかいげんとかいがんのどちらで読んでもいい?『ボールが外れたから拾う』を『ボールを失ったから拾う』と通訳する?礼記は日本の本?漢語の失正鵠の対義語は得正鵠?
    外国人「糞うぜぇマジshineと書いてるが、死ねじゃなくて輝きと訳して問題なし」
    日本人「英文で『難病と闘う少年にクラスメイトみんなでshineと言った』という文章があったので、みんなで死ねと言ったと解釈しよう」
    中国人「日本の小説で『戦友から託された手紙』という文章があった。トイレットペーパーを託されたという意味に違いない」
    メロンパンナ「神戸市民から美味しいサンライズと毒入りメロンパンを貰った。私はサンライズがメロンパンだと思うので、私にとってのサンライズを食べる」
    現代人「古典でことわるという単語が出た。判断する意味じゃなくて現代の意味で読むべき」
    アメリカ人「日本の子供はポケットモンスターが好きで、ポケットモンスター専門店があるらしい。日本の性教育はおかしい」
    現代人「昔の医学書に『この患者は二の腕に注射しないと助からない』と書いてあった。現代人だから一の腕に注射する」
    タイ人「日本人は性的な意味で好きな人にmoeと言うようだ。なるほど陰毛か」
    イザナミ「雨上がり決死隊のホトちゃん=雨上がり決死隊のvaginaちゃん」
    北海道民以外「北海道民が『子供をチョコでぼったくった』と言った。この北海道民は子供から金を巻き上げた」
    沖縄県民以外「沖縄県民が『まんこでしゃせいした』と言った。vaginaでejaculationだろう」
    この人たちが「異文化だから間違えても変じゃない。俺たちの文化に当てはめて何が悪い。言葉は変化するものだ。何も間違ってない。現代日本人だって不失正鵠を正鵠を失わずと読むだろ!」と言ったら?
    的を得ると得正鵠の基となった正鵠を得るの基となった正鵠を失わずを認めるなら、この人たちの理屈を認めなければダブルスタンダードだと思いませんか?
    大きな事柄は小さな事柄の積み重ね。正鵠を失わずを正しいと認めるの?

    文字とは昔から今、今から未来へと続いていく約束事だ。それが守られるから現代人は過去の書物を理解し、未来の人々に我々の意思を伝えることができ、異文化と交流できる
    文字とは公共財だ。もし自分勝手に意味を読み変えることに寛容であれば、文字の体系性が破壊し、コミュニケーション機能が崩壊し、文字が文字の役目を果たせなくなる
    我々人間が他の生き物と違うのは言葉が使えること。自分の意思を相手に伝えるからこそ人間社会は成り立っている
    「言葉は生き物。意味が通じれば誤りや誤用でも大丈夫」という意見があるのは、「相手に伝えたい」という言葉が存在する意味を理解しているからだ
    言葉は自分だけでなく相手を救うもの。相手を尊重するからこそ、我々は文化・時代・国を超越して理解し合えるのだ
    それは文化ではなく、人が人を想う心そのもの。互いが互いを思いやる人間として当たり前のこと
    それを「自分の文化・時代・国として読みが正しければ、相手の文化・時代・国を無視した意味でも正しい」とかどんだけワガママなんだよ
    村岡花子の爪の垢を煎じて飲まなくちゃ、ダメよ~ダメダメ

  11. うっふんピンク隊 :

    的を得る正当論を滅ぼすためのテンプレ。コピペ拡散希望

    正鵠を得るが礼記にある→ない。礼記の不失正鵠(正鵠を失せず)を失わずと間違え、そこからの推測で正鵠を得るができただけ。漢語に得正鵠は存在しない。失は失うではなくそれる・すべる・はずれる意。対義語はあたるの中。失正鵠(正鵠をそれる)の対義語は中正鵠(正鵠にあたる)
    虞集『尚志斎説』などで用例もある。下記のサイトで「中正鵠」で検索してみよう
    http://zh.wikisource.org/wiki/Wikisource
    正鵠は的の中心の黒星のこと→漢籍では的自体を指す。日本での意味は槇島昭武の個人言語から広まった可能性あり。西周がそれを参考にしたのか、仏語の’ blanc de cible’を正鵠と訳し、弓道の正鵠ができた
    結局西周が正鵠と訳した対象は、銃に関わるもので弓とは無関係。日本の弓術は矢が的のどこに当たったかで評価は変わらない。得点的は西洋からきた
    中国の正鵠≠日本の正鵠≠仏語の正鵠≠弓道の正鵠。「正鵠を得る=的の中心を射抜く→要点をつかむ」という解釈は近代的・西洋的である
    得には当たる意味がある→中国でも日本でも得に当たる意味などない
    射るだと当たったかは不明。射抜くにしなければならない→射るには当たる意味がある。『平家物語』の「扇の的」で、うつ→放つ、射抜く→射切る、あてる→射る、と言い分けている
    失の対義語は得である→得⇔損。失敗⇔成功。失望⇔希望。得手⇔苦手。過失⇔故意。失火⇔放火。失効⇔発効。見失う⇔見付ける。面目を失う⇔面目を施す。礼を失する⇔礼を尽くす。失業の対義語を就業ではなく得業と言う気か?
    昔は漢籍に精通した人が多く、年長者ほど正鵠を得ると的を得るを使用する→正確に伝来できずに意味を間違えた漢語は沢山ある。それらは誤りだが正しいとせざるを得なくなった。正鵠を得るは日本初の要点を上手く捉える意味の語句だから誤りだが正しいと認めざるを得ないだけ
    中国語で得正鵠がある→それは日本から中国に伝わったもの。違和感がないから中国で広まったと思う人は↓を見てね
    http://www.catv296.ne.jp/~t-homma/dd120404.htm
    正鵠を得る、正鵠を射る、的を射る、的を得るの順に作られた。正鵠を射ると的を射るこそが誤用→正鵠を射る(正鵠=的。射る=中)は正鵠を得るの訂正。的を射る=正鵠を射る=正鵠に中つ=中正鵠=正鵠をそれず=不失正鵠≠正鵠を失わず=正鵠を得る=得正鵠=的を得る
    的を得るは誤用じゃない→誤用の意味は「言葉の意味を誤って使う。言葉自体を誤ることではない」。的を得るは誤用ですらない
    的を得るは正しいんだ→的を射るは慣用句で、的を得るは慣用句ではない。慣用句は特定の単語の組み合わせを用い、同じ意味の単語ではダメ。100階から目薬、写輪眼が無い、馬の耳に聖歌、ハローキティに小判が正しいとでも言うのか
    正鵠を得るがなければ正鵠を射るも的を射るも作られなかった→不失=中=射る、正鵠=的。「的外れ」は18世紀から、「当たらずといえども遠からず」は1810年頃から用例がある。的を射るが慣用句化した可能性は十分ある
    三省堂が誤用撤回したから正しい→規範主義でもない記述主義の三国の「誤用。正用」をガチで参照するの?少しでも規範を考える人が三国の影響を受ける訳がない
    辞書は「正しいから載せる」訳ではないよ。↓を読んでみよう。三国はラッスンゴレライを載せてもおかしくない
    http://yunishio.blogspot.jp/2013/03/blog-post.html
    http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/tanana/2011/02/post_161.html
    記述型(実例主義)を標榜する辞書が誤りと書いたこと自体がおかしい。同様に正しいとしてもダメだ。例えばローマ法王やイスラム教が神様はいないと言って、それからごめん神様はいると撤回したら君はどう思う?
    新聞社の元校閲記者の金武伸弥によれば、新聞・出版界では、大きな辞書にない言葉でも三国を引けばある、と冗談まじりに言われるそうだ
    的を得る誤り説の初出は三国じゃない。三国の前のものには論拠が無い?話題にならなかったから大したことない?論拠を間違えただけで、的を得る自体が誤りという認識があり、的を得るが誤りという論に違和感がなかったかもしれない。それに「国が得るは誤り」とした事実が大きくないとでも言うのか?
    それを言うなら、的を得る派が正鵠を得るの基となった正鵠を失わずが正しいとする論拠を一切提示していない。しかも「三国が認めたから正しい」と話題になったのはBIFFがブログで記事を書いてからだ
    ちなみに文化庁に「三省堂が的を得るは誤りではないと言ったから、的を得るは正しいのか」という問い合わせの返答は以下の通り
    『三省堂国語辞典 第7版』の新しい記述に関しては承知しておりますが,他の辞書が同様の見解を示しているわけではありません。
    例えば,同じ三省堂であっても,『現代新国語辞典 第4版』や『大辞林 第3版』などでは『三省堂国語辞典 第7版』と同じ見解ではないようです。
    三省堂だけでなく,各社の今後の動向を注視していこうと考えております。
    BIFFの亜空間要塞は正しい→的を得るを勝手に慣用句にする。的を得る未掲載の辞書を得るを容認しているように話す。日本の正鵠の初出を勘違いした相手を調査不足だと人身攻撃も厭わない。無知と卑下しながらインテリナルシシズム全開
    余談だけど心理学では「難しい言葉を使いたがる人ほど心が狭い」とされている。あとNPDの臭いがするかも…。下記のサイトもチェックしてみよう
    http://ronri2.web.fc2.com/index.html

  12. うっふんピンク隊 :

    日本と中国は異文化。正鵠を得るは中正鵠でなくて不失正鵠を「正鵠を失わず」と日本読みし、そこから生まれた日本の慣用句。中国にない表現でも誤りではない。日本独自の文化。そもそも異文化を間違いなく解釈することなんて無理。変化は必然。失わずは決して間違いではない
    →金玉均はきんたまきん?開眼をかいげんとかいがんのどちらで読んでもいい?『ボールが外れたから拾う』を『ボールを失ったから拾う』と通訳する?礼記は日本の本?失正鵠の対義語は得正鵠?
    外国人「糞うぜぇマジshineと書いてるが、死ねじゃなくて輝きと訳して問題なし」
    日本人「英文で『難病と闘う少年にクラスメイトみんなでshineと言った』という文章があったので、みんなで死ねと言ったと解釈しよう」
    サラリーマン漫画読者「『島耕作は初芝に勤めるshineだ』というセリフがあった。社員ではなく輝きか死ねのどちらかだろう」
    中国人「日本の小説で『戦友から託された手紙』という文章があった。トイレットペーパーを託されたに違いない」
    カトリック教徒「ハライチ澤部は童貞キャラで人気を博した。カトリックの尼僧キャラだな」
    メロンパンナ「神戸市民から美味しいサンライズと毒入りメロンパンを貰った。私はサンライズがメロンパンだと思うので、私にとってのサンライズを食べる」
    現代人「古典でことわるという単語が出た。判断する意味じゃなくて現代の意味で読むべき」
    アメリカ人「日本の子供はポケットモンスターが好きで、ポケットモンスター専門店があるらしい。日本の性教育はおかしい」
    現代人「昔の医学書に『この患者は二の腕に注射しないと助からない』と書いてあった。現代人だから一の腕に注射する」
    タイ人「日本人は性的な意味で好きな人にmoeと言うようだ。なるほど陰毛か」
    イザナミ「雨上がり決死隊のホトちゃん=雨上がり決死隊のvaginaちゃん」
    ドラえもん「翻訳蒟蒻が漢語の失をそれると読んだ。日本だから失うと読むのに、それができない秘密道具は欠陥品だ」
    北海道民以外「北海道民が『子供をチョコでぼったくった』と言った。この北海道民は子供から金を巻き上げた」
    沖縄県民以外「沖縄県民が『漫湖で写生した』と言った。vaginaでejaculationだろう」
    この人たちが「異文化だから間違えても変じゃない。俺たちの文化に当てはめて何が悪い。言葉は変化するものだ。何も間違ってない。現代日本人だって不失正鵠を正鵠を失わずと読むだろ!」と言ったら?
    的を得ると得正鵠の基となった正鵠を得るの基となった正鵠を失わずを認めるなら、この人たちの理屈を認めなければダブルスタンダードだと思いませんか?
    大きな誤りは小さな誤りの積み重ね。正鵠を失わずを正しいと認めるの?

    文字とは昔から今、今から未来へと続いていく約束事だ。それが守られるから現代人は過去の書物を理解し、未来の人々に我々の意思を伝えることができ、異文化と交流できる
    文字とは公共財だ。もし自分勝手に意味を読み変えることに寛容であれば、文字の体系性が破壊し、コミュニケーション機能が崩壊し、文字が文字の役目を果たせなくなる
    我々人間が他の生き物と違うのは言葉が使えること。自分の意思を相手に伝えるからこそ人間社会は成り立っている
    「言葉は生き物。意味が通じれば誤りや誤用でも大丈夫」という意見があるのは、「相手に伝えたい」という言葉が存在する意味を理解しているからだ
    言葉は自分だけでなく相手を救うもの。相手を尊重するからこそ、我々は文化・時代・国を超越して理解し合えるのだ
    言葉とは文化でもなければ生き物でもない。人が人を想う心そのもの。互いが互いを思いやる人間として当たり前のこと
    それを「自分の文化・時代・国として読みが正しければ、相手の文化・時代・国を無視した意味でも正しい」とかどんだけワガママなんだよ
    村岡花子の爪の垢を煎じて飲まなくちゃ、ダメよ~ダメダメ

  13. アイアムノットBIFF :

    角川書店に「三国が認めたから的を得るを認めるのか」問い合わせてみました。回答は以下の通り。
    お問い合わせいただきました「角川必携国語辞典」の内容について回答いたします。
    「的を得る」については、「当を得た」や「正鵠を得る」などから生じて、定着しつつあるものと思われます。
    もう少し動向を確認したいところではございますが、「的を射る」の語釈に「『的を得る』とも。」と加筆することも検討しております。
    こうしたことは特定の辞典や調査に依拠するものではなく、編集部で総合的に判断しております。

    他にも色々な辞書出版社に「三国が認めたから的を得るを認めるのか」と問い合わせました。
    BIFFブログやブログ「こりゃ、ほたえな 辞書では言葉の意味の「正解」は分からない」も紹介しました。
    どこも大体同じ回答でしたよ。「他の辞書及び世間あるいは国の動向は確認するが、三国に限定して影響を受けることはない。自分たちの辞書に何を載せ、正誤をどう判断するかは、自分たちの考えで決めるだけ。規範・記述のどちらに偏る訳でもない」。
    問い合わせるまでもない返答。「辞書は正しい言葉を載せる本ではない。世間一般で使われる言葉を正誤・規範・記述に関係なく取捨し、自分たちがどう思うかによってその言葉の意味を決める」という辞書の根源的なことを説明されただけ。
    中正鵠について話してみると「kwsk」という反応も。

    そして三省堂に「正鵠を得るが正しいという論拠はあるのか。的を得るの誤りを撤回した理由は記述的見解と記述的見解のどちらか」と問い合わせた結果は以下の通り。三省堂は正鵠を得るも的を得るも元来正しい語句とは認めていない。
    「中正鵠」は日本語に訳すと「正鵠に中る」「正鵠を射る」等になるとのご指摘ですが、慣用句であってもこのように複数の単語の組み合わせがある以上、さらに別形として「正鵠を得る」が流通することはありうることと考えます。
    「正鵠を得る」の用例は、北村透谷・森鴎外あたりからあるようですが、慣用久しいということの重みも勘案すれば、「正鵠を得る」に関しては、『三省堂国語辞典』の中でことさら誤用と記す必要はないものと存じます。
    「的を射る」が古くから使われているため、②としても「的を射る」が本来の形であると受け止め、「当を得る」や「正鵠を得る」などとのコンタミネーションと解することによって誤用意識を生じやすいということは理解できます。
    ただ、発生の経緯や使用実態を総合的に見れば、ご指摘の「得る」の意味で捉えることが合理的であり、「的を得る」を誤用として咎められないと存じます。
    見坊先生は記述主義と規範的性格とは両立するというお考えをお持ちで、『三省堂国語辞典』では表記や語形、用法に「あやまり」や〔あやまって〕などの注記を付していることも少なくありません。この考え方自体は今後とも継承してまいります。

    ちなみに文化庁に「三省堂が的を得るは誤りではないと言ったから、的を得るは正しいのか」という問い合わせの返答は以下の通り
    『三省堂国語辞典 第7版』の新しい記述に関しては承知しておりますが,他の辞書が同様の見解を示しているわけではありません。
    例えば,同じ三省堂であっても,『現代新国語辞典 第4版』や『大辞林 第3版』などでは『三省堂国語辞典 第7版』と同じ見解ではないようです。
    三省堂だけでなく,各社の今後の動向を注視していこうと考えております。

    「的を得る誤り説の元凶の三国が認めたから決着がついた」という論を「三国がほかの辞書に影響を与えた訳ではない」「国は三国だけでは見解を変えない」「辞書は正しい言葉を載せている訳ではない」と明白に否定している。
    三国の飯間氏のツイッターを見ても「元来正しい語句とは認定していない」ということを示唆している。国及び三省堂含む辞書出版社は正鵠を失わず正当論を決して認めていない。
    これがでっち上げだと疑うのなら問い合わせメールをアップすることもできます。それでも信じられなければ実際に問い合わせしてはいかが?

  14. 魔法少女プリンセスハート :

    角川書店に「三国が認めたから的を得るを認めるのか」問い合わせてみました。回答は以下の通り。
    お問い合わせいただきました「角川必携国語辞典」の内容について回答いたします。
    「的を得る」については、「当を得た」や「正鵠を得る」などから生じて、定着しつつあるものと思われます。
    もう少し動向を確認したいところではございますが、「的を射る」の語釈に「『的を得る』とも。」と加筆することも検討しております。
    こうしたことは特定の辞典や調査に依拠するものではなく、編集部で総合的に判断しております。

    他にも色々な辞書出版社に「三国が認めたから的を得るを認めるのか」と問い合わせました。
    BIFFブログやブログ「こりゃ、ほたえな 辞書では言葉の意味の「正解」は分からない」も紹介しました。
    どこも大体同じ回答でしたよ。「他の辞書及び世間あるいは国の動向は確認するが、三国に限定して影響を受けることはない。自分たちの辞書に何を載せ、正誤をどう判断するかは、自分たちの考えで決めるだけ。規範・記述のどちらに偏る訳でもない」。
    問い合わせるまでもない返答。「辞書は正しい言葉を載せる本ではない。世間一般で使われる言葉を正誤・規範・記述に関係なく取捨し、自分たちの語感によってその言葉の意味を決める」という辞書の根源的なことを説明されただけ。
    中正鵠について話してみると「kwsk」という反応も。

    そして三省堂に「正鵠を得るが正しいという論拠はあるのか。的を得るの誤りを撤回した理由は規範的見解と記述的見解のどちらか」と問い合わせた。
    「的を得るの正誤の議論は決着がついたのか」という質問には直接言及しなかったけれど、返答内容から「決着はついていない」と示唆している。結果は以下の通りで、三省堂は正鵠を得るも的を得るも元来正しい語句とは認めていない。
    「中正鵠」は日本語に訳すと「正鵠に中る」「正鵠を射る」等になるとのご指摘ですが、慣用句であってもこのように複数の単語の組み合わせがある以上、さらに別形として「正鵠を得る」が流通することはありうることと考えます。
    「正鵠を得る」の用例は、北村透谷・森鴎外あたりからあるようですが、慣用久しいということの重みも勘案すれば、「正鵠を得る」に関しては、『三省堂国語辞典』の中でことさら誤用と記す必要はないものと存じます。
    「的を射る」が古くから使われているため、②としても「的を射る」が本来の形であると受け止め、「当を得る」や「正鵠を得る」などとのコンタミネーションと解することによって誤用意識を生じやすいということは理解できます。
    ただ、発生の経緯や使用実態を総合的に見れば、ご指摘の「得る」の意味で捉えることが合理的であり、「的を得る」を誤用として咎められないと存じます。
    見坊先生は記述主義と規範的性格とは両立するというお考えをお持ちで、『三省堂国語辞典』では表記や語形、用法に「あやまり」や〔あやまって〕などの注記を付していることも少なくありません。この考え方自体は今後とも継承してまいります。

    ちなみに文化庁に「三省堂が的を得るは誤りではないと言ったから、的を得るは正しいのか」という問い合わせの返答は以下の通り
    『三省堂国語辞典 第7版』の新しい記述に関しては承知しておりますが,他の辞書が同様の見解を示しているわけではありません。
    例えば,同じ三省堂であっても,『現代新国語辞典 第4版』や『大辞林 第3版』などでは『三省堂国語辞典 第7版』と同じ見解ではないようです。
    三省堂だけでなく,各社の今後の動向を注視していこうと考えております。

    「的を得る誤り説の元凶の三国が認めたから決着がついた」という論を「三国がほかの辞書に影響を与えた訳ではない」「国は三国だけでは見解を変えない」「辞書は正しい言葉を載せている訳ではない」と明白に否定している。
    三国の飯間氏のツイッターを見ても「元来正しい語句とは認定していない」ということを示唆している。国及び三省堂含む辞書出版社は正鵠を失わず正当論を決して認めていない。
    これがでっち上げだと疑うのなら問い合わせメールをアップすることもできます。それでも信じられなければ実際に問い合わせしてはいかが?

  15. 課長壊れる :

    とりあえず証拠として角川書店の問い合わせメールの画像をアップしました。パワードは「gachirezu」です。携帯直撮り+横向きでゴメンね!(*σ・ω・`*)てへぺろ
    http://fast-uploader.com/file/6986555413879/
    http://fast-uploader.com/file/6986555453906/
    http://fast-uploader.com/file/6986555480294/
    http://fast-uploader.com/file/6986555502757/
    「角川書店は本物でもあとはでっちあげだ」と言いがかりをしますか?とどめをさされたいのですか?
    まぁ、飯間さんのツイッターを見ての通り「記述主義である三国の編集方針に従った」だから、わざわざアップする意義もないでしょう
    「三国がほかの辞書に多大な影響を与え、そして世に広まった」…?「三国は国や他の辞書に直接影響はないものの、一般市民に影響を与え、その結果として国や他の辞書にも影響した」と路線変更するのかな?
    いやいや、事実上決着と主張しているのだから、「国も三国も三国以外の辞書も認めない」という真実を覆す論拠があるのでしょう
    なんたって国と三国と三国以外の辞書に立ち向かおうとしているのですからね

    中国で和製漢語が広まった理由は、中国の研究家によると、意味に違和感がないからじゃなくて、和製漢語がなだれ込んだ上に文法に違和感がないから
    得正鵠が中国に伝わったのは違和感がないからと思う人は、「和田アキ子が男泣き」という文章に文法に問題がないから違和感がないのでしょう

    失と得は相互に呼応していると主張する人は、失敗はしても成功はしたことがなく、逃走犯を見失ったら見付けずに見得ようと頑張り、礼を失するといけない状況で礼を尽くさずに礼を得るのでしょう
    そしてみんなが失職の対義語である就職するための活動中に得職活動していたのでしょう。ためしに得職で検索しても、フジテレビのサイトと別々の単語の続きで得職になったっぽい中国サイトしか出てこなかったんだけど

    不失を訓読みで失わずと読んでもいいと主張する人は、「賜汝好物也」を訓読みしてトンデモネェ意味にして日本が誇る卑弥呼様をがめつい女とディスっても全然気にしないんだろうな
    passion-playを情熱のプレイと読ませる戸田奈津子レベルだわ
    言葉は変化していくものだけれど、「国民を守るために他に適当な手段がない」の適当の意味を「高田純次やザキヤマみたいに適当」と解釈しちゃってもいいと言うのかい?!

    異文化を自分の文化に置き換えて読んじゃちゃいけないという話なのに、「漢籍にない表現でも誤りではない。たとえば中国には咲くという表現はない」と言われてもリアクションに困っちゃう
    自分の文化が偶像崇拝禁止だからって、他の文化の建造物を破壊するどっかの激ヤバ集団じゃないんだから!
    http://www.honyaku-tsushin.net/100/kenkyu.html
    http://www.seiwatei.net/kanbun/hohoron.htm
    http://kambun.jp/izanai/04-19mondaiten5.htm
    http://www001.upp.so-net.ne.jp/dassai/gishi/gishi_aboutyomi.htm

    あなたは、最強のお花畑ブログ信者の称号を手に入れた先に、なにを望むの?
    フフッ
    余計なお世話だったかしら。あなたには、きっと

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主催者プロフィール

講師 臼井隆宏
■臼井隆宏(うすい・たかひろ)
1974年埼玉県生まれ。進学塾講師を経て、コンピュータサポート業をスタート。96年末より、儲からない社業とは別に「コネなし、実績なし」からライター業に進出。以後、各誌に寄稿する傍ら、97年からは自社ライター育成にも注力。 05年、ライター講座ドットコムを開設。株式会社ユータック代表取締役。

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